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私の失敗告白②

2022/06/24
おはようございます。ゆきたです。
昨日は起業のきっかけから、「安売りはするな」という教訓を得たというところまで話しました。今日はその続きから。

時は遡ってたまたま協力してくださったOBの会社の話から。高校の時の友達に協力してもらい、無事に撮影を行った私はその日帰ってすぐに編集作業に取り掛かりました。「スピードが命」と何かのビジネス書で読んだものが活きましたね、先方からは初稿が早くて驚かれたと同時に喜ばれました。そして何回かの修正のやり取りをした後に無事納品となりました。僕としては多少の修正は必要なものの、このスキームで起業すれば上手くいく、といった確信に似たものがありました。

が、ここで僕の臆病癖が出てしまったのです。あんなに社長になる、と豪語していたのにいざ起業するとなると「一人だとこわい」といって仲間を集め始めます。これがもう一つの失敗です。ちょうどいいタイミングで高校時代の友達が就職浪人をするということで会社に誘いました。彼はやることもなかったからかOKして僕らは会社を設立することとなりました。

どこかの起業物語よろしく、僕らは引っ越して同じ家に住みながら仕事をしようということになりました。ここからは昨日書いた通り、二社目がすぐに見つかりそこから報酬はなかったもののトントン拍子で案件が決まり、メディアも充実してきました。そして、ついに5万円で初受注が決まったのです。このときは記帳しに行ってその数字を見て喜んだのを覚えています。

そんなとき、ある飲み屋のマネジメントをやってみないかという誘いがありました。そこは元々お客さんとして通ってた飲み屋だったのですがそこの店主が辞めるとのことでした。本業があるし、第一飲み屋なんて無理だと思い断っていましたが何度も頼まれるので、これは新しい挑戦をするいいチャンスじゃないか?と思い引き受けたのでした。

その頃、本業の方はどうなっていたかというと無事に初のマネタイズができて、それでも安いと言っていただけたのでここから5万→10万→20万→30万と値上げをしていこうという話をしていたところでした。また、当初は企業との打ち合わせは僕が行っていたのですが相方も同行させてそのやり方を教えていました。そして、撮影の際のインタビュアーも僕がしていたのですが、同じ大学でアナウンサー志望の女の子がいてその子のポートフォリオになるし僕としてもここの仕事を外注出来たら嬉しいと思い利害が一致したためお願いする手筈となっていました(卒業後彼女は無事にアナウンサーになりました)。

暗雲

これまでの第一章を整理すると、僕:企画・打ち合わせ・インタビュアー、相方:編集という分担だったんですが、その後は、僕:飲み屋、相方:企画・打ち合わせ・編集、女の子:インタビュアーということになりました。完全に僕は映像制作から離れました。

それからは、最初の引き継ぎ(ほぼ一からの立ち上げ)のために4か月間毎日休みなく働き、まさに身を粉にして働きました。相方が仕事をしている素振りがあまり見られなかったのですが、他人にきつく言えないため、見て見ぬふりをしていたんだなと今となっては思います。実際、その間彼が上げてきたものは一案件だけで、やはり仕事をしている様子は伺えませんでした。

しばらくした後に、仕事はしてないのかとそれとなく聞いてみました。すると相方は仕事が取れないと言いました。やり方を聞くとメールをしても返信がない、と。そのメールの送信件数の少なさには驚きましたが(僕の1/10程度。。)、優しく打席に立つのが圧倒的に少ないことと今まで築き上げてきたコネを上手く使うよう言いました。また、本来は会社として引き受けたい案件でしたが、彼はもう社会人で親の援助がないであろうことから(実際には知りません)、僕の大学の先輩が振ってくださった案件を個人で受けて生活の糧にしてよいとの許可を出しました。

そこから、その案件をもらってありがたいだろうなと思いきやひたすらクライアントに対しての文句ばかりを吐いていました。元々、そういうネガティブなことをよく発言するタイプなのですが(偏見ですけど昭和の親父みたいな?)、このときにはっきりこの人とは仕事ができないなと思いました。あとはほぼ放置というかほったらかしにして向こうから切り出すのを待っていました。

最後の最後まで

そうこうしているうちに、プログラマー的なことを勉強してそういった案件をやりたいと言ってきてお金を出してあげては、数か月後に音を上げて、「俺はゆきたみたいに独学で勉強できない」と言われたりしました。開き直りもすごいけど、なら他に方法はなかったのか?と言いたくなりました。

最終的には自分からITを学びたいから他の会社に就職すると辞めていきました。もちろん僕は止める理由もありません。数日後、引っ越しをすると親などに協力してもらい荷物を運び出すと言っていたので、その時間に家を空けて私は時間を潰しました。

そして、家に帰るととんでもない光景が目に飛び込んできました。荷物を運び出したのはいいのですが、自分の荷物が置いてあったところを全く掃除していなくて誇りまみれのまま去っていったのです。元々、共同で住んでいたにも関わらず掃除を全くしていなくて汚かったのですが、さすがに荷物出したところくらい掃除しろよと呆れました。

さらには、彼が持ってきた洗濯機が置いてあったのですが、「洗濯機必要でしょ?買い取って」と言われる始末です。僕が「それ持って行っても置き場所困るんでしょ?ゴミ引き取れって、さらにワンチャンお金取ろうとするの?じゃあいらないから持ってっていいよ」というと返信が来なくなりました。最後の最後までがっかりさせてきます。

極めつけは、後に共通の友人に聞いたのですが、「ゆきたからお金はもらってない」と言っていたことです。まず、一緒に会社を立ち上げて同じ役員なのだから一緒に稼ぐ立場じゃないの?と思いました。にもかかわらず、仕事はしない、仕事が取れない言い訳ばっかで逆にどこからそのお金が発生するのか教えてほしいです。もちろん僕も期せずしてずっと無報酬でした(幸いまだ学生だったので親に援助してもらってました)。まるで僕が独り占めしているような言い草だったと聞いてとても悲しかったです。

それに、本来は競業避止義務とやらで行ってはいけないはずの同じ業務を個人で受けていいよと僕は勧めてあげたりもしました(これも僕が取ってきた仕事です)。なのにこんな風な仕打ちを受けるのかと本当に呆れました。

と、こんな顛末で僕は最初の起業に失敗しています。今この会社は休眠状態です。大好きだった愛犬の名前を冠した会社なので畳めずにいます。話に出てきた飲み屋は今でもマネジメントをしています。映像制作事業はご想像の通り止まっています。

ここでの学びはまず「自分の孤独、寂しさに甘えて他人にすがるな」といったところでしょうか。ここが一番最初の失敗だったと思います。自分の手に余る規模になってきたから他人に協力を仰いだのではなく完全に自分の孤独に負けたのが一番最初の過ちです。

次に「信頼できる人以外身内に入れるな」といったことがあります。元々、相方は高校の同級生だったのですがそこそこ仲のいい程度。価値観も共有できていなければ、目標も共有できていませんでした。人となりも全然知らなく、クライアントにすごく文句を言って嫌だなと感じたのは会社設立直後でした。その頃にはもう遅いのですが。。。

こんな感じでツラツラと書いてきましたが、彼にも何か言い分があるはずです。そして、僕の第一歩目に付き合ってくれたことは事実だし、それがあったからこそ僕は二歩目、三歩目とたしかに歩くことができます。あの一歩目がなければ僕は未だに何一つ行動できなかったでしょう。その点ではとても感謝しています。

当時は怒りも悲しみもありましたけど、今ではもうそんなもの忘れました。僕はひたすら前に進み続けるだけです。疎遠になったのも悲しくはありません。またいつか、どこかでお互い結果を出して出会えたらいいなというくらいです。

僕は新しい仲間とどんどん挑戦していきます。
今回書いたものは決して愚痴を言いたかったわけではなく、自分の中の軌跡、そして刻み込んだ反省として書いたのです。そこのところだけよろしくお願いします。

ではでは